他愛ない日常を彩って。 

掛け値なく魅力的


※ブログの中でいくつか劇中の台詞を書きましたがメモも取らず朧げな記憶の中書いておりますので、若干異なっていると思います。悪しからず。




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はじめ、配給から送られてきたFAXを見て本当に驚いた。字幕版を制作中であることはツイッターなどの情報から知っていたし、そういったお知らせを各劇場に伝えてくださってる様子も目にしていたけど、まさか、土日含めた1週間全部、そして全部の回で字幕版の上映が行われるとは思わなかった。両手を挙げるしかなかったです。心意気に完敗です。やりよるなぁ。



日本語字幕版の上映自体はそこまで珍しいことではないと感じたのはわたしがそれにほんの少し携わる立場にいるからだと思います。チケットを切るときに字幕版での上映ですと一言付け加えて、劇場前パネルに日本語字幕版の表示を貼る、だけ。購入の際にもそれを言われているにも関わらず、えっなんですかそれという態度をされたり言葉を投げかけられたり笑われたりすることは少なくはなかったです。わたし自身、邦画に字幕が付くことに具体的なイメージがわきにくく、かえって分かりにくくならないのかななんてことも思っていました。これは、原作において伸が昔、バラエティー番組に字幕やテロップが付くことを煩わしく感じた感情と似ていると思います。聞こえる側の人間だから、当たり前に思うことだと思う。気になってしまうことを気にする必要はあるようでないのかなって。ここは難しいとこですね。


大半が聞こえる側の人間であることもあるからか、普通、言うならばわたしが関わったことのある日本語字幕版上映は、何日間かの限られた日数、そして限られた時間において 適用されているものだった。だから本当に驚いたんです。まさか全部に付けるだなんて。


結果として、見た感想として、この試みは大成功だったと思います。わたしは原作から入ってるからかもしれないけど、ひとつひとつの言葉が耳で聞いてるだけのときより突き刺さって染み入る感じがしました。レインツリーの国の世界観を表現するにあたってこの文字でのアプローチは本当に効果的だったと思う。毎回泣いてしまうとはいえ、初日よりかは幾分落ち着いてきていた中、初日並みに大号泣してしまいました。




原作の中でひとみが言っていたことでもあるけど、昔何かの読書感想文で 「聞く」と「聴く」について言及したことがあります。聞くことは自然にできるけど、聴くはわずかな聴力と神経をとぎすまして唇を読まなければいけない、と。わたしはどちらかというと「聴く」ことについて、ひとつの物事に対して耳と目と心を使って向き合うことは真摯でいいことだっていう風な文章を書いた記憶があるけど、実際に 聴くことをしているひとにとってはそれは大変なことであって、それに頼る他ない人たちにとって 聞くことができるひととの会話は本当に大変なことなんだろうなと思いました。試しにお芝居を字幕を見ずに口の動きだけで見てみましたが、すごく難しかったです。何回目かの鑑賞なおかつ原作を読んでいたから、次の台詞が分かっているから、次の唇の動きに備えることができただけで、これは台本も何もない普通の会話だったらどれだけ神経を使うんだろうって考えました。





「普通の音量で喋ってください。それでも聞こえないときは聞こえないので」
「口元に手を添えないで。口元を隠されると唇を読めません」
何気なく台詞として組み込まれてることだけど、これってすごく大きなことなんだろうなぁって。いつか訪れるかもしれない機会のために覚えておこうと思いました。


「ひとみさんは中途失聴者なん、難聴者なん?聾者じゃないよな。種類は伝音なん?感音なん?」
これも何気なく組み込まれていたけど、すごくいいと思う。伸さんがひとみさんを理解しようとするように、わたしは作品を思う気持ちがあるから、この何気なく出てきた単語があとからすごく気になって。何となく知ってるように思ってるけど、実は全然知らないよなぁって。正確にわからなくたって物語の進行にはそこまで関係がないけど、もっと理解したい、知ってみたいって確かに思えたことはこの作品との出会いのなかでも嬉しいことのひとつです。聾って漢字むずかしいなぁ、とかね。龍の耳ってなかなか粋なセンスだなって思ってたけど、ロウって言葉はぼんやりしているさまを表すようで耳がぼんやりしているという意からこの字を使ってるそうですね。月がぼんやりで朧。これは意味を知ってからの方がそのセンスというか由来に唸りました。






知らないことはこわいことだと思う。無知が理由で傷つけてしまうことはほんとにこわいことだけど、たくさん起こりうることでもあります。だからこそ、知らない、ってことを、知っておく必要があるんだろうなぁって。高校のときの倫理の授業をふと思い出しました。無知の知を唱えたソクラテス。考え方が気に入ってひとを好きになったのは初めてだった気がします。偉人に馴れ馴れしいけど(笑)、ほんとそう。



わたしは、自分は何も知らないってことをちゃんと思って生きていきたいなぁって思います。知らないから知りたいって思えるから。それは特権だと思う。知りたい、分かりたいって、近づいて寄り添うことはすごく素敵な愛情表現だなって、映画をとおして強く思いました。




でも、知らないっていうことをちゃんと理解できてなかったなって反省することもあるんです。書くかどうかすごく悩んだけど、これはちゃんと書いておきたい。わたしは、西内まりやちゃんがあまり得意ではありませんでした。ニコラのころから見てたけど、何となく苦手でした。この何となくって表現の、曖昧さが好きでもあるけど、すごく無責任な気もしてきらいでもあるなぁ。でも、番宣やインタビュー記事、そして何よりひとみという役に対する姿勢をお芝居から感じ取って、わたしはまりやちゃんのことを何ひとつ知らなくて、知ろうとしなくて、勝手に苦手意識を持ってただけだったんだなって。じぶんの視野と興味の狭さを恨みました。本人に伝えたわけではないのに、ものすごくへこみました。何に対してもすごく真っ直ぐに誠実に取り組んでるんだなって。耳が不自由なお芝居ももちろんなんだけど、1回目のデートの1軒目のオムライスのお店で傘をたたむシーンがあるんだけど、伸さんが何も気にせず傘立てにいれるのに対してすごく自然に器用にまとめているところとか、あれは本来のひとみの性格が出てた気がして好きでした。細かいしうまく説明ができないんだけどね。何だか好きでした。

そして、ものすごく周りが見えて、いや、見ようとしてて、その場が楽しくなるように、玉森くんのファンであるわたしたちをも楽しませようとしてくれる、そんな気遣いができる方なんだなって。華やかさと貪欲さが共存してるイメージを持っていて、そこから何となくとっつきづらく感じてしまっていたけど、この人はその力を自分だけではなく場に対して注げる人なんだなって。すごく好きになりました。嫌いが好きになることって、わたしはほとんどないので、彼女が持つパワーはすごいです。見るたび元気になれたよ。玉森くんにもたくさん話を振ってくれて、無茶振りもしてくれて、ありがとうございます。おかげさまでかわいい姿をたくさん見ることができました(笑)まりやちゃんを好きになったことも、この作品に会えてよかった理由のひとつでもあります。




字幕版でどうして涙があふれたかというと、メールを読む伸さんもとい玉森くんの声がものすごく優しかったからです。これも何となく音で聞いて、映像と合わせながら観てた時には自然と聞いていた。それはそれで世界観にどっぷり入り込んでたってことだからいいと思うんだけどね。文字を追いながらだとわたしは自然と音に興味がいって、その声色の優しさとか笑ったあとの余韻だとかそういう細かい部分の情報がなぜかどんどん入ってきて。本を読んでるときのことを思い出してたのかなぁって。

わたしは本を読んだ高校生の時からずっと、伸さんが理想のひとで大好きだったのですが、やっぱり彼は青春菌のかたまりのようなひとでもあるので(笑)、それは伸さんだから言えるんですよ〜〜それは伸さんだからできるんだよ〜〜って思うこともあってね。それも含めて眩しい存在だったんだと思う。

その伸さんをより素敵なひとにしてくれたのは紛れもなく玉森くんです。脚本って言ったらもちろんなんだけど、ある種事故でメールを送ってしまって 気持ち悪がられたらどないしよ…って落ち込むところとか なんだか親近感がわくというか。あとこれは持って生まれた玉森くんの柔らかさが、役に、そして映画の空気感によく合っていたと思います。等身大の男の人な一面がきちんと描かれていたからこそ、芯の強さとか器の大きさとかがより際立ったんじゃないかな。あと、絶対否定しないとこが伸さんのほんとうに素敵なとこだと思う。話や言い分を聞いた上ではっきりした言葉をくれるって、これはやっぱりこのひと自身の大きさだなって、その懐の深さに泣かされました。ひとみさんのセンスももちろん素敵だけど、真っ直ぐな伸さんの言葉選びもわたしはすごく好き。掛け値なく魅力的です。好きな言葉をこっそり拝借。

制作が決まってから、上映が決まってから、上映が始まってから、たくさんの時間が過ぎてすっかりじぶんの生活というか心のなかにこの作品が入り込んでいて、すごく嬉しいです。と、同時にあと何回スクリーンで見れるチャンスがあるんだろうって寂しくなったりもします。いつのまにかの贅沢な悩み。たくさんのことがあったなぁ、ってぼんやり思い出してます。たくさんいろんな涙を流したなぁとか。恵まれたことに舞台挨拶のほうにも2度足を運ばせていただきまして、より自分の中で大切な思い出になってます。

正直なところこれを見届けたらわたしが玉森担としてやり残したことってもうないんじゃないかなってくらいに、大袈裟だけどそのくらいに掛けていたので。寂しいけど燃え尽き症候群みたいに、ぱっとお別れしてしまうんじゃないかなって、それがすごく不安でもあったんです。その日をむかえてみたら、全くそんなことなかったんだけどね。ゴールかなって思ってた日は、玉森くんをもっと好きに、大事に、特別に、想うきっかけの日に変わりました。これからもお世話になりたいです。気持ちに波を打ってほしいです。



でも、ほんと、ね、ツイッター見てくださってる方はわかると思うのですが、掛けるものが大きすぎて重すぎて、生活と心にこの作品が入り込みすぎてて、終わりが見えてるいま、気持ちのバランスがうまく取れずにいます。厄介な話なんだけどほんとにそうで。こう、いろんなことから取り残されていってる気分のまま漂ってしまっています。そういう時に楽しい言葉は綴れないのでいまはおやすみという形をとらせていただきました。別に誰が見るものでもない、好きに呟けばいいとも思うんですけど、やっぱり言葉を大事にしたいからこそ、玉森くんを想う気持ちを大事にしたいからこそ、幸せがつまったつぶやきをしたいなぁっていうのが、これも大袈裟なんだけど、自分の中で思っていることのひとつでもあります。あとなんだかんだ言ってネガティブなツイートってそんなに見たいものでもないよねっていうあたりまえのことも思ったりします。そんなわけで、少しおやすみなさいをします。



少々暗くなってしまいましたが、自分にとってこんなにも特別な作品に出会えたことに感謝します。ときめきをありがとう。ずっとずっと特別な作品です。あらためて関わってくれたすべての方に大きな拍手を送りたい。

さらに、特別気に入りの作品になりました。